どうも、とがみんです。
人間が生きる目的の一つのキーワードとして「自由」というものがあると考えています。
理想と現実のギャップの差に不自由を感じ、ギャップを埋めるために成長し自由を獲得し、
達成したらまた新たな理想が生まれ、不自由を感じ、そのギャップを埋めるために成長する。
その繰り返しの中で、究極の自由を突き詰めることが人間の生きる目的なのではないだろうかと考えています。
ただ「自由でありたい」という言葉を聞いた時、「自由には責任が伴うよ」とか言ったり、
「自由でありたい」と言った人は言った人で「それぐらいわかってるよ」となったりすることは誰にでもあるのではないでしょうか。
「自由でありたい」という言葉には、その言葉によって伝えたいこと以外の何かしらのノイズが含まれているため、それが認識の齟齬、違和感を生んでいるのではないかと思います。
そして、自由よりも「自然」という言葉の方がしっくりくるのでは?と考えたので、
この記事では、その違和感についてや、「自由」とは、「自然」とは何か、また、「自由」と「自然」の関係性について考察していきます。
Contents
自由とは
自由な状態とは何かについて、一般的には、「他から束縛を受けず、自分の思うままにふるまえる状態。」だったり、
「他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っている状態」のことを指します。
しかし、この「自由」の中には、他者に害を及ぼしてしまう「自由」も含まれているかと思います。
やりたい時にやりたいことをする。思うままに振る舞うのであれば、
- 仕事でのプロジェクトで飽きたからって急にやめる
- 子育てしんどいからやめる
- 誰かを監禁したいから監禁する
とか、他者に害を与えてしまう自由も含まれてしまうのではないでしょうか。
「自由には責任が伴うよ」は、全体の幸福度の最適化を目指す上では「責任」という物が必要なんだろうなと。
責任を全うすることによって、全体最適化への方向に進むが、
責任を放棄すると、全体最適化から遠ざかる方向に進んでしまう。
全体の幸福度を最適化するに当たって、責任という物は必要である、がしかし、
責任が発生することによって、自由度は少なからず小さくなる。
つまり、究極的な自由を目指すことは、人生の目指す方向性となんか違うなあという話になってくる。
「自由」も「不自由」も必要な要素だなぁと。
そこで、目指す方向性として、「自由」とはまた違った切り口で考える必要があって、
その一つとして「自然」という物がしっくりときたので、次に「自然」とは何かについて考える。
自然とは
自然と言われてどのようなことを思い浮かべるでしょうか。
- 人為が加わっていない、ありのままの状態。
- 海・空・山などの自然。
Wikipediaで調べると、上記のような説明が出てきます。
川が上から下に流れるように、水の入ったグラスの中に、インクを垂らすと、インクが水の中で広がtたりと、そのような法則を自然法則と言ったりします。
そうなるべくして、そうなっていく、または、そうなっている状態、そのような法則のことを「自然の流れ」や「自然の」や「自然法則」というんじゃないかと思います。
次に「自由」と「自然」の関係性について。
「自由」と「自然」の関係性について
「自由」と「自然」の関係性について考えていきます。
「自由」には、「責任を伴う自由」と「責任の伴わない自由」に分けられ、
責任の伴う自由な状態が「自然な状態」であり、
責任の伴わない自由な状態は「不自然な状態」なんじゃないかなぁと考えました。
人間として目指す方向性は、「究極的に自由な状態」ではなく、そこから不自然な状態を取り除いた「究極的に自然な状態」なんだと思いました。
人間は、人間全体の幸福度が最大化する方向に徐々に進んでいっていると考えています。それが自然の流れであり、その自然な流れに乗っている「自由」が「責任の伴う自由」なんではないでしょうか。
目指す方向性としては、「自由な状態」よりも「自然な状態」なんだろうなと。
「自由でありたい」と言った時に生じる認識の齟齬、違和感は、「自由でありたい」と言った際に、人間の幸福度を最大化させる自然な流れに対して逆行する、「不自然」が含まれているかどうかなのではないかと思います。
まとめ
「自由」に対する違和感について、また「自由」と「自然」の関係性について考察しました。
人間における「自然な状態」とは「責任の伴う自由な状態」であり、
「不自然な状態」とは「責任の伴わない自由な状態」である。
人間が目指す方向性は「自由な状態」ではなく「自然な状態」であって、
「自由でありたい」ではなく「自然でありたい」と言う方が、しっくりくるのではないでしょうか?
そして、目指すのは「究極の自由」ではなく「究極の自然」なんだろうなぁと。